礼拝説教要旨「どうして怒るのか」(創世記 4:1-10、マルコ 7:14-23)

2021年10月31日
降誕前第8主日

創世記 4章1-10節(旧約)
マルコによる福音書 7章14-23節(新約)

説教 平良愛香牧師

「どうして怒るのか」

 

宗教改革記念日。1517年10月31日、マルチン・ルターが95箇条の論題を教会の扉に掲示したのがプロテスタント教会の始まりとされる。史実は分からないが「キリスト教は完成されたものではなく、絶えず改革し続けないといけない宗教である」ということを覚える日であっていいと思う。

カインとアベルの話。ある時、カインは農作物を、アベルは子羊を神に捧げようとした。神はアベルの捧げものだけを受け入れたため、カインは激しく怒って顔を伏せた。神はカインに言う。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」。

カインは自分の業績を神に認めてもらおうとしたが、アベルは業績ではなくただ神から与えられたものの中からお返ししたということで神から良しとされた、という解釈が多い。でも私自身、納得いく解釈にはまだ出会っていない。ただ言えるのは、聖書には「理由は書いていない」ということ。どちらの捧げものを神が受け取るかというのは、神が決めることであり、人の側の価値観や功績とは無縁であった、ということ。では一所懸命何かやっても無駄ということ?必死で追い求めても神は良しとしないこともある、ということ?

ヨブ記は「こんなに誠実に生きているのにどうして苦しむのか」と問いかける。それに対する答えは、「天地を作った神があなたと一緒にいるのだから、何も心配しなくてもいいではないか」といった、はぐらかすような神の言葉だった。でも聖書が言いたいのは、「結局神が決めるから、人間が何をしても無駄」という話ではない。私たちの人生は、大なり小なり、納得のいかないことの連続であり、それに対し「神よ、なぜ!」と怒ることがある。

それに対し、神は「どうして怒る必要があるのか。わたしが共にいるのに」と語り掛けてくる。「神さまに対して怒ったり不満を言ったりしてはいけませんよ」ということではない。しっかり怒り、ときはしっかり不満をぶつければいいと思う。ただそのときに、「私は神よりも正しい」となっていないか、そこが問われている気がする。じっと神の答えを聴きたい。絶えず神の前で揺れ動く私であるけど、そのような私を決して見捨てることなく、「わたしが傍にいるよ」と呼びかけてくださっている神の声を聴きたい。怒りながらでいい。その呼びかけに応えて、一歩踏み出すことから始めたい。