礼拝説教要旨「権威には従わないといけないの?」(ローマ13:1-10、マタイ22:15-22)

2021年10月10日
聖霊降臨節第21主日

ローマの信徒への手紙 13章1-10節(新約)
マタイによる福音書 22章15-22節(新約)

説教 平良愛香牧師

「権威には従わないといけないの?」

 

マタイ22章ではイエスに罠を仕掛けようとする人が出てくる。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか」。それに対してイエスの答えは「すべては神のものである。一時的に誰かに手に託されているだけなのだ」ということ。神と皇帝は相反する存在ではなく、今は社会を治めるのを神が皇帝に託しているのだ、と。

これはイエスが知恵を効かせて見事な言い逃れをしたということではない。「あなたがたは神の権威を用いて人を罠に陥れようとしているが、本当に神が望んでいることをあまりにも分かっていない」という指摘だった。神が求めているのは、人々が互いに愛し合い、尊敬し合い、共に生きていくことであり、「神に従っているから」と言って人々や社会を軽んずるということがあってはならない、ということ。神に従うというのは、神を愛して隣人や社会は二の次、と言うことではなく、すべてはむしろ「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されている。

しかし権威への従順は、決して無批判なものであってもならない。神の愛を実現し、人の尊厳を全うしようとしているかどうか、権威そのものが問われている。もし権威がそのようになっていないならば、私たちは時には行動をもって揺さぶりを与えないといけないこともある。

第二次世界大戦中、日本基督教団は権威に逆らえなかったどころか、アジア侵略を祈り遂行した。アメリカでは広島・長崎に原爆を落とすとき、成功しますようにと神に祈った牧師がいた。政府や権威がやろうとしていることを、無批判に「神のご計画である」とするのではなく、本当に神はそれを望んでいるのだろうか、と考えないといけないし、そうじゃないと気づいた場合は、抵抗し止めないといけない。実はキリスト者として生きるということは、神さまの懐に抱きかかえられて生きると言うことと同時に、ときには波風を立てながら、社会や権威に抗って生きていく生き方でもある。

難しいでしょうか? 大丈夫。大前提にあるのが、「神の愛」。それは、暖かい懐であると同時に、神が本気でこの世界を愛し、一人一人を愛していると気づいたときに沸き起こる「エネルギー」でもある。