礼拝説教要旨「信仰によって」(マタイ21:28-32、ヘブライ11:17-31)

2021年10月3日
聖霊降臨節第20主日
世界聖餐日/世界宣教の日

ヘブライ人への手紙 11章17-31節(新約)
マタイによる福音書 21章28-32節(新約)

説教 平良愛香牧師

「信仰によって」

 

ヘブライ人への手紙11章には信仰によって生きた人々が羅列してある。たしかに偉業を成し遂げたように見える人も多い。けれど、大したことをしていない人もたくさんいる。非の打ち所がないとは言えない人もたくさんいる。「信仰によって生きた人」というのは、実は人間味あふれた、失敗も多く、ときには取り返しもつかないような罪を犯している人たち。神様を一切疑わず、愚痴を言わず、ただ従順に神に従った人たちというわけではない。

この人たちにも罪や欠けがたくさんあるにも関わらず、神の導きを証するものとして用いられた、ということ。この人たちが信仰深かったからすばらしい、と書いてあるのではなく、こんな人たちをも神は用いられた、ということ。それに私たちも倣おうではないか、ということ。私たちが信仰の先達たちに倣うというのは、「清く正しく美しく」の生き方ではなく、困難な中で、何度も失敗を繰り返しながらも、その都度神のもとに戻り、神に用いられるということ、それこそが信仰の生き方なのだ、そんなことを聖書は語る。「私なんかとてもとても」ではない。こんなちっぽけな私を、神は用いる。「私はダメだ」「私にはできません」と本気で思っている私を、神は用いる。

二人の息子のたとえ話。神が求めているのは、「イヤです、行きません。行けません」と言っている人すら、「でも何かができるかもしれない」といって畑に来ること。そこに用意されているものがある。もしかしたら本当に小さなことかもしれない。「神が示した希望を信じ、希望をもって生きる」ということだけでいいのかもしれない。「こんな私でさえ、神は用いようとしている」ということ、それこそが「信仰によって生きる」ということではないだろうか。

最後に一つだけ付け加え。「行きます」と言ったけど行かなかった人の理由についてイエスは語っていない。気が変わったのかな。やんごとない理由ができたのかな。それをすべて神は「ダメだ」というのだろうか。

神は私が「できない理由」もすべて知っておられる。だから安心。本当にできないときは、しっかりサボろう。神が力を与えるまで。でも、神様って、できないことを「やりなさい」とは言っていないのだろうな。もう一歩、「させてください」と言えるものでありたいとも思う。