礼拝説教要旨「明日死なないとしたら」(テサロニケ二 3:6-13、マタイ20:1-16)

2021年9月26日
聖霊降臨節第19主日

テサロニケの信徒への手紙二 3章6-13節(新約)
マタイによる福音書 20章1-16節(新約)

説教 平良愛香牧師

「明日死なないとしたら」

 

メメント・モリという古いラテン語の言葉がある。「死を覚えよ」と訳されることが多い。「だから今を楽しめ」という意味で使われた時期もあるが、のちに現世での楽しみが空虚であることを強調する意味で使われるようになった。そして「今頑張っているのは空しいこと。働いても意味がないこと」のように考える人たちが出てきてしまった。初期のキリスト教でも終末(世の終わり)が近いということで、今の生活はどうでもよいと考え、怠惰な生活を送る人が多くなっていたらしい。

それに対し、テサロニケの信徒への手紙の著者は、終末はいつ来るか分からないのだから「自分で得たパンを食べるように落ち着いて仕事をしなさい」と勧める。自分の死や世の終わりが明日来るかもしれない、という備えは、同時に「明日キリストが来なくても困らないように」という堅実な生き方を求める。

ある人は「人間は、明日死ぬかもしれない、ということよりも、明日も生きているかもしれないことのほうが不安である」と言った。そうかもしれないない。けれどその中に、神が中心にいてくださる。わたしたちは「どうせいつか死ぬからすべて神に委ねている」のではない。終わりの時まで、精一杯生きていけるよう、神に委ねている。死がすべての終わりではない、と信じているが故に、私たちは生をおろそかにするのではなく、より全うする生き方ができるのじゃないかと思う。

マタイによる福音書「ぶどう園の労働者」の譬え。朝から働いている人と比べて働きが少ない人の、その働きを神はよしとした。「それでも賃金を支払ってやりたいのだ」とおっしゃる神。それを神から与えられた祝福として受け止め生きる。そのことを喜びたいと思う。

しかし同時に、今日この社会においても、労働を搾取され、いくら働いても正当なパンを与えられない人々があり、一方では不当に得ている人がいる。そういった状況に対し、「神が喜ばれる労働にはなっていない」と気づいたときに、私たちは新たに与えられた課題として立ち上がらないといけないのだろう。

私たちに命を与えた神は、私たちが神のために働けるよう、その体をくださり、知恵をくださり、その時をくださった。

神から与えられた時を、精一杯生きていきたいと思う。明日死ぬとしても、明日死なないとしても、精一杯神に委ねて生きたいと思う。私たちの日々の生活がそのように祝福されたものであることを祈りたい。