礼拝説教要旨「こんなのでもクリスチャン、こんなのこそクリスチャン」(エフェソ 5:1-5、マタイ19:13-30)

2021年9月19日
聖霊降臨節第18主日

エフェソの信徒への手紙 5章1-5節(新約)
マタイによる福音書 19章13-30節(新約)

説教 平良愛香牧師

「こんなのでもクリスチャン、こんなのこそクリスチャン」

 

エフェソ5:5の「すべてみだらな者、汚れた者、どん欲な者、つまり偶像礼拝者は、キリストと神の国を受け継ぐことはできません」を読むと、キリスト者は、清く、お上品にならないといけないのかと思わされる。でも本当は「こんな欠けの多い私でさえも、よしとし、愛してくださる神様を知った。その事実を受け入れて生きる決心をしたんです」というのがクリスチャン。「あなたみたいなのもクリスチャンなの?」と言われたら、「わたしみたいな人間こそ、クリスチャンよ」と堂々言える「こそクリスチャン」でありたい。

みだらなこと、性的なこと、下品な冗談そのものが、人間を神の国から遠ざけていくのだという価値観は現在でも根強い。でも本当は、話そのものが悪いのではなく、そのことによって、他者が、あるいは自分が、人格を持つ大切な存在であることが忘れられモノ化されてしまう、ということが指摘されているのかもしれない。突き詰めていくと「自分を愛するように、隣人を愛せない」ということに集約されているのではないかと思う。

マタイ福音書に出てきた「子どものようにならなければならない」というのは純粋無垢になれということではない。どんなに能力がなくても、力が無くても、業績がなくても、自分が愛される存在、守られねばならない存在であることを知っている。イエスが伝えたかったことは、点数稼ぎをしなくても、神様が愛してくださっているということを信じ、ゆだねること。自分の能力や努力・業績によって神からほめられようとして金持ちの青年に、イエスは、だからあえて無理なことを言って、「あなたの価値観を問い直せ」と言っているのではないだろうか。

神は清貧を要求しているのではなく、ただ「私は神に愛されている」「そして、私以外のあの一人一人も神に愛されている」その事実を、無条件に受け入れること。そこから私たちの生き方が始まる。

難しいんじゃないか。できるはずだ。マタイ19:26「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」。「できなかったこと」を数えるのではなく、「いま神が共にいること」ここに真の希望を見いだし、今週も歩みたい。