礼拝説教要旨「イエスが十字架で死んだとき」(マタイ 21:1-11、27:32-46)

 

2021年3月21日
受難節第6主日/棕櫚の主日

マタイによる福音書 21章1-11節、27章32-46節(新約)

説教 平良愛香牧師
「イエスが十字架で死んだとき」

 

イエスがエルサレムに入城したとき、人々は大歓迎した。けれどその数日後にはイエスを歓迎した人たちは、イエスを磔(はりつけ)にする怒った群衆となる。人々の歓迎はなんだったのだろう。可能性としては、多くの人が雰囲気にのまれてイエスを歓迎し、ローマから解放してくれる救世主だと期待していたが、そうではないと感じたころに、デマや情報操作によってイエスを敵視するようになったとも考えられる。イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と絶叫して死ぬ。

以前、農村伝道神学校の入学式礼拝で当時の高柳校長のメッセージに、「聖書に、イエスが十字架にかかったとは一言も書いてない。かかったのではなく、かけられた、と受け身で書いてある。どうしてそう書いてあるのかをしっかり見極めないといけない」という言葉があった。「イエス様は私たちの罪を負うために十字架にかかりました」ではなく、あくまでも磔に「された」ということ。だからイエスは絶叫したのではないだろうか。

みんな既に神に愛されているというイエスの教えは、自分の努力によって神に良しとされようとしている人たちにとっては不愉快な教えだった。人間よりも神を優先すべきだと考えていた人たちは、イエスがたびたび律法を破り、あたかも、神よりも人間を大切にしているように振る舞うことが神への冒涜、宗教の破壊だと思えたに違いない。さらに、社会の上下関係をイエスは壊そうとしていて、多くの人がその教えに傾倒し始めていると感じた人たちは、イエスを危険すぎる政治犯だ、と見た。

自ら十字架にかかったのではなく、人々によって磔にされ絶叫して死んでいったイエス。神に見捨てられたと感じたイエス。ここは美化したくない部分。

けれど福音書はそこで終わっていない。イエスが息を引き取ったその時、神殿の幕が裂け、神と人とを隔てていたものが取っ払われた。イエスは絶叫の末に息を引き取った。そのとき「むしろ、それまで必要だと私たちが思っていた、私たちと神とを隔てていたものが取っ払われた」ということ。この大きな悲しみを通して初めて私たちが知ったことは、傍らに神はおられるということだったのではないか。

レントの残りの一週間、受難週を、祈りのうちに、神が共にいることを喜びながら過ごしたい。