礼拝説教要旨「何からの解放か」(ローマ8:1-11、マタイ20:20-28)

 

2021年3月21日
受難節第5主日/復活前節第2主日

ローマの信徒への手紙 8章1-11節
マタイによる福音書 20章20-28節

説教 平良愛香牧師
「何からの解放か」

 

弟子のヤコブとヨハネがイエスからのご褒美を期待したときに、イエスが答えたのは「杯を飲む」ということだった。弟子たちにはその苦い杯が強いられるのだが、その苦労によって神の恵みを勝ち取るというのではない、ということでもあった。どんなに信仰深く生きたとしても、神からの報いは、人が努力して掴むものではない。私たちが信仰しているのは、神さまからの御利益が欲しいからではなく、救われたという経験、神が私を愛していると信じたから。でもどこかで神に「特別待遇」を求めたくなる。それって駄目なこと?

ローマ8章7節「肉の思いに従う者は、神に敵対している」は、自分の努力、自分の力によって神を振り向かせようとすることは神への敵対だ、と指摘している。神さま、ほめてください、って言っていい。きっと神さまは「よく頑張っているね」とほめてくれるだろう。でも、褒めてもらうことで自分の評価を上げることはできない。

「身代金」とは奴隷や捕虜を解放するための金。イエスが自分自身をそう呼んだのは、十字架の意味を語るためだった。神の前に罪深さを思う私たちは、自分の努力で赦しを得たいと思ってしまう。けれど聖書は、人間の側ではつぐないはできない、ただ神に頼るしかない、ということを言う。それをイエスは十字架で示した。

神学の一つに「贖罪論」がある。キリスト教のとても大切な神学となった。イエス自身がいけにえとなり死ぬことで、私たちの罪が赦されたという神学。ただ、私自身はもっと素直に、こう考えている。

自分がいかに努力しても、神の前で「よし」とされることはない。けれど同時に、神が私を愛している。もはや自分の力に頼らなくてもいいということに気づかせてくれたのがイエスの十字架だった。イエスに従うということは、私が救われるために、徹底的に自分の力により頼まない生き方をすることではないだろうか。イエスが示したのは、「神によって捉えられていることは、すでに解放なのだよ」ということだったのではないかと思う。

罪からの解放と表現することもできるだろう。でももっと言えば、「私が自分の力、自分の信仰で救われようとしてしまう」という自分による縛りから解放を与えるのが十字架である。十字架は私を私から解放する。自分の力に頼るのではなく、神が共に絶えずおられる、そのことを確信し、喜びたい。