礼拝説教要旨「これはわたしの愛する子(サムエル上16:1・16-13、マタイ3:13-17)

 

2020年1月10日

降誕節第3主日

サムエル記上 16章1、6-13節(旧約)
マタイによる福音書 3章13-17節(新約)

説教 平良愛香牧師
「これはわたしの愛する子」

 

王になる儀式としてダビデに油が注がれた時、ダビデはまだ子どもだった。12節「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派だった」しかしそれでダビデが選ばれたわけではない。7節「容姿や背の高さに目を向けるな。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」しかしほかの兄弟よりも心が美しかったから選ばれたのでもない。明らかなのは、神の心による一方的な選びだったということ。聖書が語るのは、私たちの心や善行が神を振り向かせるのではなく、神の一方的な招きがあるということ。

ダビデは後に、度々ひどい過ちを犯している。ダビデはいい人間だから選ばれたのではなく、ただ神の一方的な選びによって選ばれた。神に選ばれた人は、どんなに過ちを犯しても神の祝福の中を生きる。では選ばれていない人は何をしても無駄なのか。そうではない。神の選びから排除されている者は一人としていない。ダビデは油を注がれる対象として選ばれたけど、ほかの兄弟が神から見捨てられたわけではない。それぞれが神の選びの中にいた。そして私たち一人ひとりも、神の選びの中にいる。

大切なのは、それに気づけるかどうか、神の選び神の招きを受け入れるかどうか。救いというのは、神が私たちを救ってくださっているということを信じるかどうかということにかかってくる。信じないと救われない、のではなく、信じるとき救いが実体となる、と言ったほうが正確なのかもしれない。

イエスが人間としての生涯をたどったということを表すイエス自身の洗礼。神の選びをイエスも受け入れ、洗礼によって表明した。そのとき、天から声がしたと聖書は記す。「これはわたしの愛する子」これはイエスだけが神から愛されている子という意味ではない。私たちには直接聞こえなくても、神から「あなたは私の愛する子」と声をかけられている。私たちも一方的に神から選ばれ「これはわたしの愛する子」と声をかけられている。

しかも、イエスの上に神の霊が降ったように、私たちにも聖霊が降る。どのように生きるか、どのように神の声掛けに応えて生きていくのかを知り、導かれ、立ち上がる力を得る。ダビデも油を注がれて以来、主の霊が激しく降るようになった。その聖霊が「み心にかなう者」と呼ばれた私たちの生涯を導いていく。

「これは私の愛する子」この声を信じ、この声に力づけられ、立ち上がりたい。