礼拝説教要旨「神に求めたから」(マタイ 5:38-48)

 

2020年11月22日

降誕前節第5主日

マタイによる福音書 5章38-48節(新約)

説教 平良愛香牧師

「神に求めたから」

 

キリスト教を基にした様々な物語が現代でもある。実話をもとにしてあるものも実に多い。その中には、「神に求めたら与えられた」という話が本当に多い。ともすると「祈れば聞かれる、求めれば与えられる」というご利益宗教の話になりやすいし、逆に、かなわなかった願いや祈りは、信仰が足りなかった、とか、神はそれを望まなかったという話にすり替えられたり終わらせられたりしやすいので気を付けなければならないけど、それでも「求めたとき、それがかなえられた」という話には私たちの祈りを聞いてくださる神がいる、という信仰がもとにある。ただのご利益宗教ではなく、私たちの求め、私たちの飢え渇きに答えようとしておられる神がいる、という信頼、信仰によって、不思議な、あるいは大きな恵みが実現していく。

沖縄にうふざと教会という小さな伝道所がある。この教会に会堂が与えられた話がとても不思議。「うふざとの地に教会を建てたい」と祈りつつ訪ねた借家の持ち主は、「うふざとに教会が与えられますように」と祈っていた人だった。ともに信じて祈り求めていた時、そこに与えられたという話。

マタイ5章47節の「求めるものには与えなさい」という言葉は、善意の人になれとか、善行を積めば神に報われる、といった話ではなく、神は求める者には与えてくださるという信頼、足りなくなったものは補ってくださるという信頼に基づく。だからこそ神から与えられたものを分かち合うということができる。

なかなか与えられないなあと感じることだってある。あまりにも長い間待たされると、待つことすら忘れてしまったり、ただの習慣になってしまったりするかもしれない。けれど信仰とは待つこと。今すぐは実現しないかもしれないが神は必ず答えてくださる。それを信じて待つのが信仰。来週から迎えるアドヴェントは、待つことの大切さを心に刻みなおすとき。待つことの積極的な意味を思い起こし、救いの約束が実現する時を追い求める者でありたい。