礼拝説教要旨「アブラム、アブラハム」(創世記 13:8-18)

 

2020年11月8日

降誕前節第7主日

説教 平良愛香牧師

「アブラム、アブラハム」

創世記 13章8-18節(旧約)

 

信仰の父と呼ばれることもあるアブラム(のちにアブラハム)は、しかし決して立派な人だったわけではない。何者かが美しい妻のサライを強奪するために自分を殺すかもしれないということを恐れて妹だと偽った話や、子孫が与えられるという約束がいつまでも成就しないと言って神に食ってかかった話、「ほかの女性との間に子どもを作れと神が言っているのかも」と思って、サライの女奴隷であるハガルに子どもを産ませる話。なぜ信仰の父?

それはアブラムが神に逆らわなかった人間だったからではなく、神と格闘しながら、ときには人間的な判断で行動して失敗したりしながら、それでも神の指し示す方向を目指していったから。それがのちに民族の祖先になっただけでなく、イスラエルの神に対する信仰の基礎を作った人として、尊敬されていると言えるのだろうと思う。

13章でアブラムは、神からの呼びかけを聞いたとき、主のために祭壇を築いた。たくさん失敗もするアブラム。けれど心から神への信頼を持っていた。いや、信頼していたからこそ、口答えしても食ってかかっても、神はしっかり受け止めてくれると分かっていたのだろう。

マタイ福音書でヨハネがファリサイ派やサドカイ派の人たちに「アブラハムの子孫だからといって、自分たちが救われると思うな」と言ったのは、血筋ではなく、路頭に迷ったように思える時ですら神が導いていることを信じる生き方に気づかねば意味がない、ということだったのだと思う。これから救い主に出会うだろう、そのときに本当に大切なことを見極められなければまったく意味がない。麦の殻のように焼かれてしまうのと同じだ、と。

私たちは不安だらけ。これから自分がどうなるのか、どう死んでいくのか。けれど、聖書が語るのは、私たちが生きている道がどんなに困難だったとしても、そこに神が共におられる、ということ。私たちもアブラハムと同じように、行く先を知らないまま生きている。その道は、神が押し出し、神が共におり、神が先で待っておられる道。絶えず私を守り、導いておられる神が、死の先までもともにいてくださる。

アブラハムが信仰の父と呼ばれたのは、そういった神の存在を信じたからに他ならない。ときには、神に食ってかかり、時には人間的な失敗をしつつも、それでも神はわたしを見捨てない。アブラハムがそれを信じて突き進んだように、わたしたちも信じて突き進んでいきたい。