礼拝説教要旨「わたしをおいて神はない」(イザヤ44:6-17、ローマ3:21-28)

 

2020年11月1日

降誕前節第8主日

説教 平良愛香牧師

「わたしをおいて神はない」

イザヤ書 44章6-17節(旧約)
ローマの信徒への手紙 3章21-28節(新約)

 

バビロン捕囚末期から解放の時代に生きた「第二イザヤ」と呼ばれる預言者は、絶望の中の民に対して慰めと希望を語り、嘆きの中にも働きかける神の業を示す。不安や絶望の中でいろいろな宗教に走ろうとした人たちも多かったのだろう。しかしそれに対し、神が預言者を通じて語る。「恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ、告げてきたではないか。」「わたしをおいて神はない。だれか、わたしに並ぶ者がいるなら…わたしと競ってみよ」。これは、私こそ神だ、というだけでなく、現代の私たちにはもっと深いことを語り掛けてきているように感じる。

キリスト教ではほかの宗教と対比して「偶像礼拝の禁止」ということを言うことが多い。けれど聖書を読みながら感じるのはむしろ、「間違ったものにすがっても救いはないことに気づけ」ということのように感じる。時にはお金や経済だったり、権力や権威だったり、あるいは科学技術によってひたすら生産性を求めることにすがることが、時には人間を苦しめるものになっていたりする。生産性を基準としたとき、生産性を損なう者たちは排除されていく。あるいは、一部の人の利益、幸福追求が、他者との格差を広げていたりする。

何か大きな崩壊が起きた時、みんな苦しむけど、実は背後で弱くさせられていた人たちが、さらに苦しみの中に取り残される。被災の中に、外国人や障がい者やLGBTの人たちが忘れられてしまっているということがある。そうであってはならない。神が「わたしをおいて神はない」と言うとき、それは、すべての人類、すべての生き物にとっての神が、私たちすべてを一人残らずはぐくみ、「損なわれることがないように」と初めから終わりまで共にいるということ。それに気づきなさい、ということに他ならない。

ローマ3章でパウロは信仰による義を説く中で「信じる者すべてに与えられる神の義にはなんの差別もありません」と宣言する。人間的な価値観、優劣、資格の有無ではなく、ただ神の側の一方的な迫りによって、すべての人に神の義、神の救いが実現していく。「どうして私はこんなに苦しまないといけないの?」と言いたくなるときに、イザヤ書の「恐れるな、おびえるな」という神の言葉が響いてくる。差別なく、すべての人を救う救い主の降誕に向けて、備えの日々を過ごしていきたい。