礼拝説教要旨「エッファタ(開け)―イエスの誘(いざな)い―」(マルコ7:31-37)

 

2020年10月18日

聖霊降臨節第21主日

説教 吉野結伝道師

「エッファタ(開け)―イエスの誘(いざな)い―」

マルコによる福音書7章31-37節(新約)

 

さて本日の聖書テキストの箇所は、マルコによる福音書7章31-37節です。

この奇跡物語は、旧約聖書イザヤ書35章の預言を背景としています。イザヤは、バビロンに捕囚の民となっているイスラエルの人々が神ご自身の導きによって、シオンに帰り、ヤハゥェ(主)の栄光が回復される喜びと希望を詠っています。

目の不自由な人、耳が不自由な人、言葉が不自由な人、手足の不自由な人、心に病を抱えている人、これらは「障碍」という言葉の一言で表現されるわけです。

古代イスラエルの人々はこれらの障碍は何らかの罪の故であり、神の裁き、罰、あるいは悪霊による拘束と考えていました。

イザヤはイスラエルのバビロン捕囚を、神に背いた罪の故と考えていました。けれども、イザヤは神ご自身が今、イスラエルの罪を許し、解放してくださることを願い、花々の再生(生命の再生)、新進が不自由な人々の癒しという出来事を通して、罪の許しの恵み=心身への「束縛からの解放」の恵みを歌うのです。イエスは、「罪の許しというふるまいにより、罪というものの中に人々を閉じ込めようとする律法主義からの解放という恵みを語ります。

当時のイエスの言葉を聴いた人たち(民衆=聴衆)はそのような姿をイエスから受け取ったであろうし、そのように語るイエスの姿は、鮮明に心の中に残ったであろうと考えられます。既存の律法主義的閉塞感に対して、アンチテーゼとでもいうべき言葉を紡ぐイエスの姿に、喝さいを送る民衆の心を私は、垣間見る思いがします。

イエスの民衆への新鮮な問いかけの言葉の数々は、イエスにおいて、「閉じられていたものが大きく開かれていく」ことを喜びとして、あるいは直感的に感じることが出来たのではないでしょうか。イエスの働きかけは、民衆の想いに呼応し「エッファタ(開け)」によって、様々な人々たちが言葉では言い表すことのできない希望と新しく生きる力を受け取ったのだと理解することが出来ます。

日常の中で、新しい生活=新しい生き方への再創造が出来たというほど甘い現実ではなかったにしても、イエスの言葉の端々に希望と可能性を見出す。それらは、糸のように細く弱かったとしても、何かしらを感じ取ることのできる喜びであったかもしれません。

イエスは耳が不自由な人々、口が不自由な人々に癒しを施した後、36節では「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。」とマルコは伝えています。「しかし、イエスが口止めされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた」というのは、それだけ驚きと喜び、そして希望が人々の心の中に強く広がっていったことを意味しているのだと理解できます。

イザヤの預言した「救いの時」は、このようにしてイエスによってもたらされる、とマルコ福音書は伝えようとしているのだと理解したいと思いますし、理解できます。

それは、あなたの人間としてのすべてを用いて、神に感謝し、「真に生きるものとなる」ことへのイエスの誘(いざな)いです。