礼拝説教要旨「天国に行きたい?」(コリント二5:1-10、ヨハネ11:1-16)

 

2020年10月11日

聖霊降臨節第20主日

説教 平良愛香牧師

「天国に行きたい?」

コリントの信徒への手紙二 5章1-10節(新約)
ヨハネによる福音書 11章1-16節(新約)

 

ベタニアのマルタ、マリアから、弟ラザロが病気だという連絡がイエスのところに届いた。「早く来て助けてください」ということなのだろう。イエスはラザロを起こしに行くことを宣言する。

しかしイエスが宣言するのは、連絡を受けてから2日も後のことだった。理由は謎。イエス自身は「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と言っていて、まるで一旦ラザロが死んでしまうのを待っているかのようにも読める。もしかしたら、二日間イエスも悩んだのかもしれない。すでにイエスは命を狙われていたのだから。イエスは悩まない、というふうにスーパーヒーローに仕立て上げる必要はない。実際イエスは人の子として苦しみを受け、たくさんの葛藤をする。

イエスがベタニアに到着したとき、既にラザロは死んで3日もたっていた。マルタやマリアがイエスに言う。「あなたがここにいてくださっていたなら、ラザロは死ななかったでしょうに」。これは「どうしてすぐに来てくれなかったの」という強い抗議にも読める。その怒りと悲しみに対してイエスは泣く。もしかしたらイエスの涙は、すぐに来られなかった後悔の涙でもあったのかもしれない。

ラザロが死を前にしているという時にイエスが語った「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」という言葉をあえて考えてみたい。「ラザロは死なない」と言っているようにも聞こえる。奇跡が起こって命を取り留めますよと言おうとしたようにも聞こえる。

けれど同時に、イエスはラザロが死ぬことが分かっていたとも読み取れる。ラザロは死ぬだろうけど、それで終わりではない。そこに神の栄光が現れるのだ、と。実際ラザロは死んでしまった。イエスがベタニアに向かったのは、「死なない」ではなく、「死んでも終わりではない」といことを示すためだったと言える。同時にそれは、イエスが迫害を受ける覚悟を示してもいた。イエス自身が殺されるかもしれない。

しかしそれは終わりではない。そういった、死を超えて現れる神の栄光を人々に示すためだったのだといえる。その一番分かりやすい方法が、よみがえらせる、ということだったと言えるかもしれないけど、よみがえったから神の栄光が現れた、ということではなく、死を超えて神が私たちとつながり、関わってくださる、ということの奇跡をわたしたちはそこから読み取っていくのではないか。

パウロは天の住まいについて語る。地上の住まいは幕屋(テント)であり、天の住まいは建物である、とパウロは説明する。朽ちるものと朽ちないものの対比。

私(平良)は、地上での命が仮のモノだとは思っていない。けれど、それをも含めて、死を超えて、本物が私たちには用意されている、というのも真実であろうし、たとえ命が終わる、ということを目前にしても、「大丈夫。あなたのすべて、命も死すらさえも、神は包み込んでくださっている。それほどに神は力があり、またあなたを愛しておられる」ということに気づく。それこそが、神の栄光、神の神らしさなのだと思う。だからこそ、たとえ死を前にしても、あるいは生きることがしんどいな、と思っても、「大丈夫、神がついている」と信じて進んでいくことができるのではないだろうか。