礼拝説教要旨「神さまのいるところ」(エフェソ3:14-21、ヨハネ10:22-30)

 

2020年9月27日

聖霊降臨節第18主日

説教 平良愛香牧師

「神さまのいるところ」

エフェソの信徒への手紙 3章14-21節(新約)
ヨハネの福音書 10章22-30節(新約)

 

ヨハネ福音書10章22節から、イエスとユダヤ人たちとの論議が登場する。ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言う。「いつまで私たちに気を持たせるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」。イエスの口から「私はメシアだ」と言わせて、「神を冒涜した」と摘発しようと挑発していたのだろう。しかし中には、イエスがメシアであるかどうか確かめたかった人もいたのかもしれない。ひょっとしたら、という思いもあったのかも。

イエスがユダヤ人たちと論争になったのは、エルサレムでの神殿奉献記念祭の頃だった。ハヌカ祭とも呼ばれるその時期は、ユダヤ人たちにとって宗教的自由を確立するメシア期待が高まる時期だった。しかも場所が、神殿の境内の回廊だったと記されている。神殿は大切な、「神と出会う場」だった。だからイエスがメシアであるかどうかは大切なことだったし、もしかしたら「私がメシアだ」と言われたら喜んだのかもしれない。けれどイエスの答えはその期待をはるかに超える「私と父は一つである」だったので、逆に、神を冒涜しているようにとられて人々の怒りを買ったのだろう。でも「私と父は一つである」って「私は神だ」という意味だとは限らないと思う。

神殿や教会は神と出会う場所かもしれないけど、神が教会にしかいないわけではない。逆に人々が「神を求めている」と言いつつ、神が私たちに求める神の国の実現とは違う方向に向かうならば、神殿は何の意味もない。むしろ、神の意志を体現しようとしているところにこそ神はおられるのではないか。イエスが「わたしと神は一つである」というのは、「わたしは神である」というよりも、「わたしがいるところに、神がいる」ということではないだろうか。そしてそれは、私たちが神の言葉を体現しようとしているならば、やはり同じように「わたしと神とは一つである」と言えるのではないだろうか。神は神殿や教会にしかいないのではなく、私たち一人ひとりと共に、絶えずいる。そして、私たちが神に生きようとしたとき、そこに現れるのだと思う。

神は教会にだけいるわけではない。あらゆる生命のいる場所、さらには、生命すらいないような場所にすら神はいる。あるいは、「ここにはいないだろう」というような場所にこそいる。腐敗した社会と感じるとき、弱者をさげすんでいる社会だと感じたとき、戦争したがる国だと感じたとき、勘違いの価値観に支配されている世の中だと感じたとき、そこにこそ神が居続けてくださっている。だからこそ、私たちは求めたときに神と出会うことができる。「それでも神はここにいる。このどうしようもないと感じる世界の中でこそ、神はいる」ということを知る。そして、この神と出会ったときに、わたしたちは、神がともにいることを知り、神と一つになり、神の実現しようとしている生き方を始めることができる。